ワンダフル・ボタニカル・ライフ
尊敬するいとうせいこう氏がうたう『ボタニカル・ライフ』。ハードボイルドな植物愛好家である俺(おれ)。たからかに宣言したベランダーという俺の立ち位置。
庭をもつガーデナーと一線を画すために創られた氏による造語ベランダー精神 に大いに感化された私は、 その昔、狭くて日当たりの悪い2階建てマンションから少しだけ広い中層マンションに移ったことを幸いに、 さっそく氏の亜流を いこうと決心した。
ずっと前からうすうすは気付いていたのだが、私は植物がとても好きだ。しか しそれをはっきりと自覚し、 なおかつ公表するのは、自分で自分はいい人ですといっているような気がして、なんとなくためらっていたのだ。 氏の啓蒙によ って、そのような抑圧的自意識を持つこと自体、人生を無駄なものにしていることはないと思い 始めた。秘められた植物への情熱は、私を、俺的精神をもっ たベランダーに変えるのにさほど時間はかからなかった。
しかしただの亜流ではつまらない。ハードボイルドな俺的精神には言葉の意味 からしてちょっとした反骨だましいも含まれている。私は意図的に、氏の躊躇 する盆栽の世界をあえて覗いてみようとしたのだ。しかも、まるで俺的精神と 敵対するような、当時若い女性のあいだで流行り始めたミニ盆栽という甘いス タイルで。
いとうせいこう氏の植物ものエッセーは以下で読めます。
盆栽と私
盆栽は祖父母の趣味のひとつだったので、やれ今年もしゃくやくが咲いた、ミズゴケを採りに行かねばなど、 うちではしょっちゅう盆栽関連の事柄が会話にのぼっていた。岩に生えた苔を鑑賞するかなりじじむさい情操教育 も受けてきた。ものごころついたころから盆栽を自然と意識するようになっていたのである。
子どもごころには、水を張った盆に岩を置き、いく種類もの植物を植え付けているものがお気に入りだった。 縁日ですくった金魚を入れて楽しむ。岩の下のすき間を悠々とくぐり抜ける様子がおもしろい。川辺にそそり立つ 雄大な岩山の世界を凝縮した盆のなかの風景。そこを赤い金魚が横切れば巨大な緋鯉に見えるかといえばそうでも なくて、あくまで小さなただの金魚なのである。その視覚のギャップにうっとりと恍惚になる。でもいつのまにか いなくなるのだ。雨が降って水があふれたか、猫にやられたか。それともすぐ死んでしまい、私の知らない間に 祖父母に葬られたか。ごめん、金魚。そのころは何も気にとめず、次の祭りの縁日で捕獲した金魚を入れていった。 幼児性ハードボイルドというやつである。
思い起こせば、私の幼児記憶は、盆栽そのものというより盆栽を中心とした庭の風景にまつわるものが多い ことに気付く。盆栽を乗せる枕木のもとにある石たちをひっくり返せば、そこはダンゴ虫ワールド。ひとつひとつ ダンゴ虫をつまんでイチゴジャムの空き瓶に詰めていき、たくさん詰まったところに水を注ぐ。そして白くふやけ たダンゴ虫群を土に埋める。このような残虐非道な遊びにひっそりと興じていた。どうしてそんなことをしていた のか、成人して虫も殺せなくなった私には過去の自分が謎で仕方ない。
残念なことに、盆栽のある庭をめぐる濃密なつきあいはせいぜい小学生ぐらいまでで、中学、高校に上がるに つれ、全く見向きもしなくなった。「お勉強」に忙しい普通の受験生に成り下がってしまったからである。大学進学 で親元を離れると、庭すら遠い存在に。。。
だがはからずも時は、松嶋奈々子もミニ盆栽を育てているという情報が飛び交う時代になった(雑誌のインタ ビュー記事で確かに読んだぞ)。ミニ盆栽や苔玉がデパートやスーパーマーケットでちらほら見かけるようになる ほど市民権を得つつあったとき、私がおこなったことは、売られている商品を手にとり、ぼんやりと遠い幼児記憶を よみがえらせることであった。完全にひとり閉じた世界である。店員さんも近付いてこなかったのは、不気味だった からだろう。
正直に申せば、巷で売られているミニ盆栽なるものを買おうなどとはただの一度も思わなかった。どうしても 知らない他人の手でこねくりまわされた印象をもってしまうのだ。ホームセンターで売られている植木風情におしゃ れそうに見せかけた鉢をあわせて、一桁値段を吊り上げているあくどさも鼻についた。
実家でも、盆栽は「買う」ものではなかった。山から採ってきた木を育てるか、ごく狭い愛好家サークルから 譲り受けたものばかりだった。自分の盆栽を大変美しいと言ってくれる人がいれば祖父母も惜しげもなく手渡していた。 盆栽づくりは贈与の精神で成り立っていた。
もちろん芸術作品としての盆栽を見に展覧会に行くことはある。そこで大迫力の盆栽たちに感嘆のため息を つくことがあっても、それを所有しようという欲望は祖父母に生じないみたいだった。そもそも財力を持ち合わせて いないということもあるが、それだけではないように思う。ちょうどそれは庶民と絵画の関係に似ている。びりびりと 感銘をうけた絵をよしんば手に入れることができたとしても、うちのなかにそれに見合うだけの空間がない。作品の 存在感が他を圧倒してすべてのバランスを崩してしまうことを本能的に感じているのではないか。ゆえに絵画を愛する 庶民は自分の目をなぐさめてくれるものとして親しい人の描いてくれた絵を身の回りに飾る。
そういう意味では床の間と掛け軸の関係はよくできていると思う。普段は仕舞っておいていざというときにだけ 飾れるからだ。芸術作品としての盆栽も普段は広大な庭の一角に置いておき、ハレの日だけうちに入れる行為ができる のなら問題ないだろう。が、猫の額の上ではいかんせんバランスが悪い。おそれおおくて自由気ままに歩けないでは ないか。誰の庭なのかわからなくなる。
そうこうしているうちに、5,6年ほど前の夏休みだか冬休みだかある長期休暇中に、商業主義に侵された ものでもなく、過剰な存在感の芸術作品でもなく、すばらしいミニ盆栽に出会うことになる。それも実家において。 灯台下暮らしもいいところだ。祖父が山からいろいろな木の苗木を採ってきて、手のひらサイズの豆鉢に仕立て、 石のうえにたくさん並べていたのである。さすがわが祖父。その昔、ショーン・コネリーが全米でセクシー男優 ナンバーワンに選ばれた頃、同じようにひげを生やしたこともあったぐらいだから、ミニ盆栽が流行していることを 聞きつけて自分でもやってみたくなったのだと思う。
豆鉢仕立ての苗木の、その初々しいすがすがしい姿といったら。岡本太郎のことばを借りれば、まさに「清潔」 といったところか。ここで自分なりの適当な表現を見つけられないのがくやしい。
さっそく「ください」と所望すると、好きなのを持っていっていいと言うので、欅(ケヤキ)と美男葛(ビナン カズラ)と稚児笹(チゴザサ)の3つを譲り受け、大事に大事に育てることにした。
私のミニ盆栽たちは、照り返しの強いベランダという過酷な条件下でも、涼しい顔をしてすくすくと育ち、 季節の移り変わりのすばらしさを余すことなく伝えてくれた。欅は規則正しく新緑、紅葉、落葉を繰り返し、 美男葛は水が足りなければすぐ葉を垂らすひょうきんもので夏は特に大忙し、稚児笹はどんどん領土を増やすタフ なやつとそれぞれ個性が光る奴らばかりだ。次に帰省したときには、もう4鉢、セッコクとツツジと津山檜(ツヤ マヒノキ)と正体不明の苗木をもらってきた。ツツジなどは、地上のつつじの花が枯れ始めた頃になるときまって 2,3個の花を咲かせる。背丈10センチにも満たない小さい体に直径5センチほどの花をつけた様は臨月を迎えた 妊婦を見るようでこちらも大丈夫かしらと自然とどきどきしてしまう。
実は、稚児笹はタフそうに見えて以外と水枯れに弱く、今から3年前一度絶やしてしまったのを告白しよう。 今うちにあるのは血のつながらない2代目である。もう同じ過ちは犯していない。
なんだベランダっていとうせいこう氏がいうほど難しくないじゃんけ、というのがベランダ−1年目の感想。 苦労知らずで、ハードボイルド的哀愁とは無縁。ミニ盆栽とのつきあいが安定したころ、俺的精神をすっかり忘れた 私は華やかな草花にも触手を伸ばすことにした。これが罰当たりなことでした。
草花はベランダが嫌い
枯れる、枯れる。新しく買ってくる鉢がことごとく枯れていくのである。
私の花の好みは、ユリや芍薬などゴージャス系と山野草など楚々可憐系の両極端に振られる。中途半端なものは相手にしない。
花屋の前を通りかかると、本能的衝動にまかせることにしている。ぐぐっと来るものをキャッチできれば迷わずゲット。来なければ立ち去るのみ。惰性で花を買うことはない。ベランダつきの我が家にやってくるのは、どちらかといえば、ゴージャス系は切花で、楚々可憐系は鉢植えで、というパターンが多かった。
ベランダ上で哀れにも枯れていった草花の名前はもう覚えていないし、気にもとめていない。可憐なものばかりだったという淡い記憶があるが、控えめすぎてほとんど記憶に残っていない。かりそめのつきあい。
特に夏場につい買ってしまうのは、涼しげな青紫色の小花をびっしりつけた鉢ものである。あまりにもやさしい。そよそよと風に揺らぎ、やさしすぎて自分の存在感をアピールすることすらしない。それでいて、知らない間に急にぐんなりする。この段階でいくら水を遣っても後の祭り。そのまま醜く枯死していくのだ。
水切れサインをかなり早い時期から相当うるさく知らせてくるマイ盆栽、ビナンカズラと同じ植物界にいるのが不思議なくらい、青い小花は控えめな性格である。ビナンカズラときたら、遠くから眺めてもすぐ気付くくらい、これみよがしに葉をしんなりすとんと垂らせるくせに、水をやって何かちょっとした家事をしているあいだにしゃきーん、ピンと葉を持ち上げ、そ知らぬ顔で知らぬ間に復活しているのだ。「あんた、さっきまで寝込んでいたんじゃないの」と何度実際に声に出して話し掛けたことか。
ビナンカズラは特別変な奴だ、可憐な草花をあいつと同じように扱ってはいけないと思って、前倒しでまめに水を与えると今度はトロトロに根腐れしてしまう。そうか、これが氏のいうベランダの難しさなのかと、そしてボタニカル・ハードボイルドもここから創世されるのかと、初めて納得した。
と、ごちゃごちゃ言うまでもなく問題ははっきりしていて、木と草とでは身体の内部構造が異なり、それぞれの特徴と季節にあわせて水遣りのタイミングを変えなければいけないということなのだが、その極意を体得せぬままそそくさとベランダ−の立ち位置を降りてしまった。情けない弱い自分。この感覚を肥大させれば転向文学とか理解できるようになるのかしら。
結局盆栽以外でベランダで生き残ったのは実家からもってきたローズマリーだけだった。ローズマリーはもともと頑強な性質を持つ低木であるが、今うちにあるのは、伸びすぎて見苦しくなった枝を何本も母が切り取り、捨てるのも億劫とばかりその場でずぼずぼと土に挿し込んで適当な挿し木をし、たった2本だけ根付いたツワモノである。
ああ、私はつくづく田舎者なのだと思う。ベランダは都会派のもの。いとうせいこう氏のいう意味がよーくわかる。ほっておいても勝手に生物が育つ世界で生きてきた田舎者とベランダとは相性が悪い。ベランダは難しすぎ。こういうのは難しいのね。おかげで、木と草はこんなにも根本的に性質が違うのかということに30年近く生きてきて初めて気付きました。ありがとう、ベランダ。
そうこうしているうち結婚し、はからずもとき、妊婦時代。どうしても部屋のなかで過ごすことが多くなる。いやがおうにも「命」について考える機会も多い。これ以上殺生を繰り返してはならないとうそぶきながら、氏のおしえに背いてプチブルの好む観葉植物に手を染める。始まりはセローム二鉢から。これならよほどの事がない限り、枯らすことはあるまい。
さすがにこのときは俺的精神すら捨ててどうするとかすかに自己抵抗したが、ほら、妊娠・出産・育児と俺的精神の相性は悪いじゃないですか。ハードボイルドな授乳っていやでしょう?
ちなみに、殺生を繰り返すことへの恐怖は以外なところで顕在化する。気にもとめていないとうそぶきながら実はちゃんと気にとめていたのだ。
それは私の緊急帝王切開手術の始まる前のこと。両手両足を施錠で抑制され、まな板の鯉になった気分のこと。耳元の医療器具のなかで何か水がぶくぶくする音が聞こえてくる。それが子どもの頃遊んだ九州にある母の実家の庭の池を想起させたのだ。私は鯉が、鯉がと暴れだし、お腹を切られる恐怖と重なり、手術が始められないほど興奮した。「鯉がそこにいる」、私は錯乱者として扱われ、看護婦さんと夫に手を押さえてもらい、麻酔を打たれた。
この一件のおかげで、鮮明に思い出すことのできた記憶。
母の実家の庭には、池というより沼に近い濁った水溜りがある。曽祖父顕在のおりには蓮や睡蓮が浮かんでいたらしいが、私の子どもの頃には、覗き込めば鯉が何匹かいるのがやっと確認できるほど荒れ果てた風情であった。池の隣には今では誰も使わない伝統的便所付き納屋、奥にはうっそうとした竹林と、暗くじっとりとして、もうシチュエーション的には昼間でも十分肝試しできるほどこわい場所だった。小学校低学年ぐらいまでは夏休みのあいだ中、母と弟とでそこに滞在していたので、実際に勇気を試すため 1 人で 池に近付くこともあった。弟は、決して近付かなかった。慎重派の彼はその後人生の進路を決める際、父と意見が対立したときも、「僕は石橋を叩いても渡らないときは渡らない」と反論し、最終的にはことわざ好きの父を納得させるだけに成長した。
ある夏休み、少し足を伸ばして探検に出掛けていたところ、農業用水路に馬鹿でかいウシガエルがいた。いつものように捕獲網を持っていた私には、それは捕まえなければならないものだった。ここから獲物獲得をめぐる攻防が始まると、息をつめ用意周到にウシガエルめがけて網を下ろすと、まるで網のなかに自分から入ってくるようあっけなく捕まえることができた。参ったな。拍子抜けだった。一応捕まえたからには持って帰らなければならない。子ども心は純粋にそう思いつめていた。家まで戻る途中、どんなにかウシガエルがこのまま網から飛び出して逃げてくれればいいと思ったことか。それなのに奴はまるで眠るように網のなかに体を投げ出していた。ズシンと重かった。近くで見ればみるほど気持ち悪い色をしていた。
とうとう、奴は家までついてきた。母をはじめとする家人にそれを見せるとびっくりされることは必至なので、しょうがないからこっそりと庭の池にそいつを入れた。
次の日様子を観察しにおそるおそる池を見に行くと、ウシガエルの姿どころか鯉の姿も見えない。もしや、奴が食べてしまったのか。昨日動かなかったのはとっても飢えていたからなのか。
次の日見に行っても鯉の姿は見えない。きっと、本当にそうなんだ。気まぐれに奴を連れてきたばっかりに。私が鯉たちを、黒いものから緋鯉まで、親鯉から赤ちゃん鯉まで、殺してしまったんだ。幼い私はそう合点した。すべての鯉を飲み込み、ひとまわり巨大化したウシガエルの像が迫ってくる。恐怖のどん底に叩き落とされた。
それ以来、池にまともに近付いたことがないので、本当のことはどうか分からない。今にして思えば鯉が見えなかったのは単なる偶然のような気もする。だってそもそもが怖い場所なので、長時間観察したのではなくて、ちらっとしか見に行かなかったから。
帝王切開手術で鯉に襲われることがなければ、再び意識にのぼらなかったであろう懺悔の記憶。
いつか本当に死ぬとき、今まで殺してきた虫たちに襲われるのかな。そんなのはいやだな。今からでも遅くない。功徳をつまなければ。
その後も生命存在を甘く見てはいけない出来事が我が家に降りかかった。
観葉植物の逆襲
セローム二鉢から始まった私の観葉植物道は、セローム一鉢の虐待死で終わった。事の顛末をこれから記そう。
セロームとは、細長い茎の先に大きな切れ込みの入った葉をつける熱帯性植物で、十分日照時間があれば比較的短い茎がびっしりと生え、元気な姿をアピールする。逆に日照が不足してくると、茎の数もまばらになり、その分ひょろひょろと長さだけかせぐ事態になる。重篤な状態に陥ると、葉の黄変もまぬがれない。
そもそも同じ大きさのセロームを二鉢購入したのは、あるファッション誌のヨーロッパインテリア事情特集のページのなかの写真がきっかけだった。窓辺に対に置かれたその植物の姿がなんともしゃれて見えたからだ。再現したいと思った。すぐ素直に真似をしたがるのが私のかわいいところである(自分で言うな)。その矢先、たまたま花屋でセロームという名で売られていたその植物を見つけた。さっそく二鉢手に入れ、西日のあたるベッドルームの窓辺に並べてみた。いい感じ。うっとり。ロマンチック。
西日のあたる部屋におかれたセロームは、光を求めて細い腕をかよわく伸ばし始めた。植物に風情を求める私は、あまりに元気すぎるセロームよりも、少しだけ徒長したものが好みだったので、ちょうどよかった。結婚を機に、広めの南向きのマンションに越したときには、リビングのメインステレオスピーカの上という特等席をセロームに与えた。ステレオマニアがこれを読むと激怒するに違いないが、様になっているんだから仕方ない。
夫が所属している研究室(当時)の、公私ともにおつきあいのある秘書さんから、結婚祝いは何がいいか聞かれたときは、まよわず観葉植物をお願いした。お願いついでに、こと細かく注文までだした。パキラとかベンジャミンとかそういうありふれたのではなくて、しかも幹が編んであるような人工的なものじゃなくて、細かい葉っぱがたくさんついているようなもの。ゴムの木は嫌い、などなど。
しばらくして、私がこれまで見たこともない素敵な植物が届いた。その名もザミオカルカス・ザミフォーリア。巻き込まれた葉が茎とともに出現し、どんどんとまたたくまに肉厚の葉が展開していく熱帯植物特有の神秘さをもつ植物だ。秘書さんは私にとってプレゼントの天才とも呼べる人で、いつも、世の中にはこんなにきれいですばらしいものがあったんだと驚かせてくれる贈り物をしてくれるのだ。私も彼女のようになりたいものである。
さっそくザミフォーリアをセロームの間に美しく配置して、またまたうっとり。妊婦である私のお腹が大きくなるのに並行して、室内の植物たちもにょきにょきと土から茎を突き出し、葉を茂らせた。いい気分。実家の母が出産を控えた私の手伝いに来てくれたとき、「ジャングルみたい。息苦しいのでやめなさい」と言ったときも、いつもの小言の一つだろうと思って、まるで気にとめなかった。
11月に息子が生まれてからは、無我夢中で彼の世話に明け暮れた。道理をわきまえない、わけのわからないことをする赤ん坊だったからだ。赤ん坊はそういうものということは頭では理解していたが、上からも下からも予告なしに吐しゃ排泄物をかけられるのは未だもって好きになれない。これまでのように優雅な時間はもてなくなった。その疲れを癒してくれたのは、変わらぬ緑の観葉植物たちだった。ベランダの盆栽たちには、申し訳程度に水遣りをするだけだった。熱帯性観葉植物と比較してその圧倒的な変化の遅さについていけなかったからだ。
子育ての合間をぬって、根がぱんぱんに張っていたセロームの植え替えをおこなった。ますます元気に新しい葉を作った。こちらがそれを期待しているわけでもないのに、懸命に恩返しをしようとする姿に胸が熱くなった。
そうこうしているうちに一年が過ぎ、ようやく息子にも移動能力がつき始め、日々の生活も落ち着いてきた矢先、突然夫がからだの不調を訴えるようになった。最初は軽い頭痛を覚えていただけだったのが、咳き込むようになり、しんどい、しんどいとしきりに全身の倦怠感を訴えるようになったのだ。仕事に出掛けると気分はよくなるが、うちに帰ってくると気持ち悪くなるという。
育児ノイローゼをまず疑った。最も赤ん坊の夜泣きが激しい時期、最も世話をしたのは夫だったからだ。それにしても、なぜ今頃になって症状が出るのだろう?
真冬を迎えた頃には、息子もしきりと咳き込むようになり、私もこころなしか気分悪く感じられるようになった。これは尋常ではないと、夫は病院に行った。で、治ったはずの小児喘息が再発したという診断を受けた。呼吸困難で死ぬかもしれないので、たばこは今すぐ止めるようにとの指示が出た。よほど、苦しかったのだろう、これまで私がどんなにがみがみ言っても頑としてきかなかった禁煙がすぐ実行された。なぜうちだけそんなに不幸なの、何かのたたり?
そう非科学的思考にとらわれそうになったとき、「喉にぴりぴりとしたかすかな痛みを感じるんだ」という夫のことばから、すべての元凶を特定することができた。ぴりぴり、ブルーチーズを食べたときのあの感じ、カビ、もしやセロームという連想時間にかかった時間はおそらく1秒にも満たなかったと思う。
セロームを植え替えたとき、新しい用土として、土とミズゴケの両方を用いるのが億劫だったので、ミズゴケだけで仕上げたのだった。ご存知のように、ミズゴケは保水性抜群である。確かに、植え替え後しばらくしてから、表面にほんのうっすらと白い膜が張られていることに気付いていた。白カビを疑うのが通常の人だと思う。でも私は、季節は冬なのでカビが生えるわけがないと、それを否認していた。もちろん、カビだと、人間のためにも植物のためにもまっさきに対応策を採らねばならないことは重々承知している。そうであるからには、「ただの白い膜」として視覚情報を処理しなければ、その場をやりすごせない。
鉢の下を見ると、見るもおぞましい、カビ、カビ、カビ。
「おーのーれー、あんなに世話してやったのに」とすべて自分がまいた種ということを棚にあげすっかり怒り心頭になった私は、まだまだ霜が降りるほどの寒空(つまりベランダ)にセローム二鉢を放り出した。
これを機に家族の症状は嘘のようにぴたりと消えた。
隅々までピカピカに部屋のなかを磨き、家族の健康のため念には念をいれて秘書さんが選んでくれたザミフォーリアも泣く泣く外に出した。ますますみんなが元気になったような気がした。 熱帯生まれのザミフォーリアはあえなく霜にやられた。どす黒く変色した姿に、見てはいけないものを見た気がした。本当にごめんなさい。
だのに、あの憎いセロームは生き抜いた。いったん霜ですべての葉を落としたというのに、春になると新しい芽を出した。日光をたくさん浴びて、こころなしか葉色も元気になったように見える。しぶとい熱帯野郎め。貴重なベランダ上に、そんな奴のために二鉢分のスペースを与えるのはもったいない。引っこ抜いて、ザミフォーリア亡きあとの鉢にまとめた。
これでもしセロームが人間だとして、枯死なんかしたら、きっと「未必の殺人」罪に問われるに違いない。まさか、息子の身代わり? こわいから、これ以上言うのはやめよう。
その後、やんちゃな息子のおかげで、マンションの階下の人からうるさいと文句が出るようになり、追い出されるかのように田舎にある一戸建て(賃貸)に引っ越すことにした。 せロームは庭の隅に無造作に置かれた。真冬になって葉をすべて落とした。正直どうでもよかったのだが、春になったらまた芽吹くだろうとも思っていた。
ところが、初夏を迎えても、いまだに無反応である。植物の死を定義するのは難しいので、そのまま放置してある。今気になるのは、むしろ鉢である。もともとザミフォーリアのための美しい深緑の鉢。来年ひとまわり大きくなった風知草と合わせたらさぞかし見栄えがするだろう。おそらくそのときまで、せロームは庭にいるはずだ。ひょんなことでまた芽吹いたら、そのときはそのとき、今度こそ、愛情をもって接しようと思う。
長すぎる前口上はこれで終わり! 続きは、「植物日記」のページに記録していくつもりです。
それにしても、ますます功徳を積むどころではない今日このごろである。